2014年3月4日火曜日

解説役の存在

シリアスな話を書くのは苦手です。シリアスな話は読者の反応が読みにくい気がするのです。
それに比べてギャグは割と簡単で、書いた時のノリにそのまま読者が乗っかってくれるので楽です。

読者の反応が読みにくいというのは、読者が作者の意図と違う読み方をしてしまうということで、つまり伝わっていないということなんですが、これがなかなか難しい。
伝わらないのには理由があって、小説は基本的には視点を固定して書いていくものだという了解があるので、採用した視点からは見えないものは書けないという制約があるからなんです。

つまりどういうことかというと、私の場合、主人公の1人称1視点を採用することが多いですが、そうすると主人公の見ていない状況や主人公が気づいていない感情については書きようがないわけです。
それも、特に主人公の感情の機微を書き分けるのが意外と難しい。なぜなら、その機微はまだ主人公が気づいていない感情の機微だったりするわけで、気づいていないことは書けないというルールに抵触してしまうんです。

比較的単純な解決策は、視点を変えることです。
3人称多視点はもっともよくある方法だと思います。ただ、そうすると1人称のメリットを捨てる必要があるし、視点切り替えの必然性について余分な気を使わないといけなくなります。
1人称多視点というのもあります。猫魔女では2人主人公で1人称2視点というのを採用しましたが、ネット小説で典型的なのはside方式というやつでしょう。ただ、小説の形式としては異端なのと、視点切り替えの正当化が依然としてネックになるところが問題です。
そもそも視点切り替えというのは読者にも作者にも負担をかけるので、なければない方がいいというのが私の意見です。

視点切り替えなく全ての情報にアクセスできる方法としては、神視点というのもあります。語り手は物語の登場人物ではなく、全ての情報にアクセス可能で、物語の進行に必要な情報だけを取捨選択して読者に提供するというスタイルです。
小説の形式としては極めてメジャーなスタイルです。なぜかラノベではあまり見ない気がしますが。
ただ、これはどの情報を書いてどの情報を書かないかについての自由度が高すぎて、ちょっと手を出しにくい。感情を一切書かないハードボイルドというスタイルもあるけれど、それだと今考えている問題の解決にはならないし。

というあたりをこれまでつらつらと考えていたのですが、もう1つよくある方法があったことを思い出したというのが、今回の趣旨です。これまでは長い長い前置き。

それは、解説役の導入です。
典型的なのはシャーロック・ホームズ。凡人のワトソンくんが1人称1視点で物語を語っていくけれど、客観的な事実は細かく説明できるのに背後に潜む謎はさっぱり理解できない。それを気難しいホームズがあるときバッサリ謎を解決してしまう。
恋愛物だと「あんた、気付いてないの?」と突っ込みを入れる親友ポジション。

この方式は汎用性が高くて、かつ解説役に特殊な設定を加えてキャラを立てることもしやすいので、娯楽小説では頻繁に見る気がします。
問題は、どうしても解説役は人工的な不自然さが残ってしまうこと。理想的な解説役は全てを知っていて、自ら行動せず、完璧なタイミングで主人公に助言をする、物語を超えた作者の代理人です。
リアリティを追求すれば、物語世界に解説役を置く余地が減っていくのは必然で、ご都合主義とリアリティの折り合いをどこにつけるかは大きな悩みになります。

まあ、要するに、国王様に解説役を導入するかどうか悩んでいるという話でした。

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